涙が落ちたのに気付いていたけれど―――気付かないふりをした。
□ 旅立ちという名の別れ □
小さく揺れる波は今日はずいぶんとごきげんで、ゆったりと波を刻む。
まるでいつもと変わらない、朝。
いや、いつもと変わらないのは当然である。
海にとっては今日は特別な日ではないのだから…
けれど自分にとって今日は忘れられない日となるであろう。
自分の心と正反対の海に涙があふれ一粒、落ちた。
泣かないと、今日は泣かないと決めていたのに。
ずいぶん前にスカーレルからこの日を旅立ちの日にすると聞いていた。
覚悟は出来ていたつもりだった。
けれども、出来ていなかったのだと自覚させられる。
ただただ、どうしようもない気持ちが涙となって溢れてくる。
…旅立ちの日、なのだから心配させたくないと思った。
笑顔じゃないといけないといけないと思った。
あの日、『しばらく』したら出て行ってしまうと聞いたときから、ちゃんと準備をしてきたつもりだった。
泣かない準備、笑顔の準備、お別れの言葉を考え言う準備、餞別の準備。
でも、とも思う。
『しばらく』は長すぎたのではないかと。
せいぜい、半年でスカーレルが出て行くであろうと考えていたが、アティの考えを裏切り、しばらくと言いながら彼はもう、一年半もこの船にいた。
長い間一緒にいれて嬉しくなかったのかと聞かれれば、もちろん嬉しかった。
けれど、手放しに喜んだりは出来ない。
だってその間にもっと、気持ちは膨れ上がってしまったから。
でも、だから。
ここで、スカーレルを止めてはいけないとも思った。
彼は本当に自分の手が血で塗れていると感じている限り、自分に決して踏み込ましてくれないことをわかっているから。
触れるたびに戸惑った顔をする彼をみたくないから。
彼の言う、血塗れの手を洗ってもらわなくてはならないのだ。
何の未練もなく触れてもらうために。
告白をさせて貰うために。
だから、アティは決めた。
私は泣いていない。
私は悲しくない。
この目から出てくるモノは海に落ちたら真珠となる魔法の水だ。
だから、これは海への私からの餞別、だとそう自分に言い聞かせてアティは洗面所に向かった。
スカーレルを責めるような言葉を飲み込んで、泣きながら顔を洗う。
顔を洗うために。
心を洗うために。
顔を洗い終わると、不思議と涙は止まっていた。
その代わりに、言葉が溢れてきた。
先程までの暗い気持ちじゃなくて、責めるような言葉じゃなくて…もっと祈るような、慈しむような気持ちと言葉。
それを伝えるべく、アティはスカーレルの部屋に向かった。
廊下に出たときから足は振るえ、上手く歩くことさえ出来ない。
先程止まったはずの涙さえ出そうになった。
長く感じた廊下もやはりとても短い距離であった。
スカーレルの部屋の前。
扉に手を当てる。
本当に心の準備をして、アティは扉をノックした。
BACK /NEXT
06.06.23