静かすぎるものなので彼は寝てしまったのかと思い、リビングに向かってみた。


彼はただ静かにソファーで本を読んでいた。
そっと本のタイトルを盗み見てみると
『経済の発展とその背景』というものであった。
こんなもの読んで楽しいのだろうかとむぎは思うが、彼のその集中ぶりを見るときっと彼にとってはものすごく面白いものであるのだろう。
例え風呂の水を溜めようともテレビをつけてみようともお構いなしに一時も目を離さず本を読みつづけている。
瞬きどころか息をすることすら面倒そうだ。


これなら、気付かれないですむかも。


何をってもちろん風邪のことをだが



少し気が緩むと急に鼻がむずむずとくしゃみの合図を送った。
とめようとむぎは必死に鼻をつまんだ。
しかし
「っくしゅん…」


小さくくしゃみがでてしまった。
本当に小さな小さなくしゃみ。
風邪をひいているものというより何か小さな埃の欠片が鼻に入ってでたくしゃみのようだった。
むぎはこれなら、大丈夫かと胸を撫で下ろしていた。


けれどその小さな失敗を彼は見逃してはくれなかった。



「鈴原さん?」


「え、あはい…?」


葵は真剣な顔でこちらを見ている。
瞬時、葵の急な行動にむぎはついていけなかった。


頭も、心臓も。


手をつかまれ怯むむぎの隙を見て彼女のでこに手をやった。


そして、困ったような笑みを浮かべ言った。
優しい口調で言った。


彼の発する"風邪という言葉"は、まるで、粉薬のように甘いものだとむぎは思った。


「風邪…ですね?」


「はい」


確信している。
これは、間違いなく風邪だ。


「鈴原さん…自分の不調に気付けませんでしたか?」


「…………すみません」


口調は急に厳しくなった。


「わかっていたんですね?」


「はい。ごめんなさい」


「早く休みなさい…これ以上起きていると言うなら本当に、怒りますよ」


本当に睨みつけて葵は言った。


葵の穏和な性格を考えるとそんなことは今まで殆どなかった。
本来なら、怖くなったりするもなかもしれない。
でも、むぎはそこに何も怖さや不安はなかった。


ただ嬉しかった。


本当に愛されていると感じることが出来たから。
ぽっとと何かが落ちた。
涙だ。
涙が勝手に出てきて、むぎは困った。
拭っても拭っても止むことはない。


葵はまた苦笑いを浮かべ言う。


「厳しく言い過ぎたかもしれませんね…でも泣いても駄目ですよ」


違うんです、と言おうと思ったのにおえつでむぎは言えないでいた。
むぎの頭を撫でながら葵は言う。


「君が・……君までいなくなったら、と思うと…怖いんです。風邪は死だってありうる病気なんですから」


「ごめんなさい」


小さく震える手を見てそこで本当にむぎは心からいけないことをしたと思った。


自分と一回り以上年上の葵がむぎには迷子の子供のように思えた。
こんな葵は初めてで、
けれど、そんなところも、
聡明で優しいところだけじゃない、臆病さも弱さも心から愛おしいと思えた。
戸惑いよりもただそこまで大切に思われていることが、
自分と似たようなことを考えていたところが、
不思議で、嬉しくて、言葉にできなかった。


だから、ぎゅっと抱きついた。





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06.04.02