予想は当たっていた。
扉を開けた瞬間に広がる懐かしいにおい。
いや、においなんてないのかもしれない。
でも、何か暖かいにおいがした。
今の季節のような春のにおい。
ただ、驚きすぎて、何にも言葉は出なかった。
そっと覗いてみると相手も同じ様に固まっていた。
小さく息を吸って、むぎは目の前にいるその人の名前を呼んだ…


「一哉君…」


久しぶりだった。
彼がアメリカに渡ってから…いや、卒業してからはほとんど会っていなかった。
アメリカに彼が行ってから会ったのはたった一回だけ。
葵に会いに行ったときだけだった。
………
静かに鈍い痛みが胸を走った。
いつもこうだ。
葵のことを思い出すと、それだけで胸が苦しくなる。
思い出さない日なんてないのに。
それなのにそれだけでむぎはいつも泣きたくなるのだった。
いつもなら、込み上げてくる涙を抑えなくてはならなかったが、今日はそんなことをしなくても良かった。
だって、もう涙は枯れていたから。
懐かしいにおいに泣く涙さえ残っていなかった。


「お前…」


ふっと目が合う。
一哉は真剣な顔でむぎを睨んでいた。
何故だかむぎにはわからなかった。


「…どうしたの?」


そう聞いても、一哉は黙ったままだった。
そっと一哉の顔を覗きこんでみた。
彼は、ただ、じっとむぎを見ていた。
一哉は怒っているとき以外に黙ることは殆どなかった。
それなのに、
口を開いきかけて、また閉じた。


「変な一哉君」


笑うと妙に空々しくなって、目線をそらした。
今日はそういえばいろんなことがあったとむぎは今日一日を思い返す。
空っぽだった心の中が今日一日で随分変わった気がした。
なんだか、どうしようもなく立ち止まっていた自分が少し恥ずかしくもあった。


なんだか妙な沈黙が続く。
息苦しいとむぎは思った。
一哉は見つめるばかりで話そうとする気配はなかった。
だから、むぎはこちらから話しかけないとこの空気はどうしようもないだろうと悟り、口を開く。


「…こんな遅くにどうしたの?」


一哉は今、やっと意識をこちらに戻したかのように驚いていた。
むぎは一哉が何に気をとられていたのかはわかったので不思議には思わなかったが、自分がそんなにも前と変わっているのかと思うと怖くなった。


夏実には何度も言われたが…


そんなに…自分は痩せたんだろうか…


そんなことを考えている内に次は自分の意識が一哉から離れていたことに気付く。意識を戻すと一哉は何時も通りの『御堂一哉』に戻っていて、むぎが先程した、質問に答えていた。


「…ん。…ああ……ちょっと日本に用事があって来たんだが、それが終わったら急にお前の淹れた珈琲が飲みたくなってな」


むぎは知っている。
一哉は傲慢に見えて、そうではない。
ちゃんと常識もある人間だ。
彼は決して珈琲を飲みたいがためだけにこんな夜遅くに誰かの家を訪ねたりはしない。
だから、わかった。
一哉は嘘を吐いていると。
忙しい中、わざわざ自分の様子を見に来てくれたのだと…。


「………うそつき」


「馬鹿。嘘なんて吐いてないぜ」


「嘘吐き。さっき固まっていたのはやつれていたのに驚いたからだって私でもわかるよ…ねえ、私の調子が悪いって誰から聞いたの?」


一哉は珍しく言い訳もせず困ったような顔になる。
その顔が少しおかしくてむぎは笑ってしまった。
一哉に怒られるかもしれないと思ったが、止められはしなかった。
むぎの予想を反して、笑うむぎを見て、一哉は怒るどころか笑った。
その笑顔が逆に苦しかった。
労わられている、と、よくわかったからだ。
笑いは悲しい気持ちになっても止まることがなく、とうとう涙が出てきた。
もう、止まったはずの涙が、留め止めなく頬に流れる。
どうしようもなくて、むぎはごめん、ごめんねと謝る。
一哉は何も言わずむぎの手を引き、むぎを引き寄せた。
一哉の胸からは異国の香ではなく、自分が家政婦をしていたときの洗剤のにおいがした。
懐かしいにおいは確かにあった。
そのにおいが余計に涙をさそった。
むぎは、悪いと思いながらも一哉の胸で泣いた。
ただ、ただ、泣いてしまった。







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休止だったのに、急に書きたくなってしまって…すみません。


06.08.18