何を言っているのか夏実には理解できなかった。
まさか…依織や一哉がそんなこと言うなんて思いもしなかったからだ。
「…御堂さんがっ!?それとも松川さん…?」
むぎは笑った。
空々しい笑み。
先程の笑顔とは違う…寒気の走る笑み。
それなのに、声だけ。
いや、声と口だけは普通に笑っていて、出会ってから今までむぎをおそろしいと思ったことなどなかった夏実だが今回はじめて、むぎを恐ろしい、怖いと感じた。
「違うよ。二人ともそんなこというはずないじゃない」
ならば、誰に言われたというのだ…。
他人ではないはずだ。
よっぽど大切な人。
じゃないと、そんな顔をむぎにさせることは不可能であろうから。
「誰?まさか苗ちゃん?」
彼女は今、イギリスにいる。
恋人とふたりで暮らしていると聞いた。
ならば、その二人っきりの暮らしを邪魔されたくないと、苗が冗談めかして言ったのならば話の筋は通る。
「まさか。むしろ、一緒に暮らさないかって言われた」
ならば…誰に?
誰に言われたの………。
「そうか。話してなかったもんね…私」
何を?
私は一体何を話されていないのだ。
いつも一緒にいたつもりなのに私は何か知らないでいる。
誰か…私の知らない人なのかもしれない。
ここまでむぎを傷つける人間。
夏実は冷静ではいなかった。
そこまでむぎを追い詰められる人間は今は一人だけなのに。
「葵さん…に会いに行ってきたの」
震える声でむぎは言った。
今にも消えそうな弱弱しい声で。
夏実はまだわからなかった。
"葵"とは誰か、直結していないのだ。
むぎは夏実がまだ誰のことを言っているのかわかっていないと気付き微笑む。
さっきの笑み。
張りぼてみたいな笑みを顔に引っ付けて。
「東條、葵、理事長。ううん、元理事長」
「…………っ」
何度も、なんども、夏実は何かを口にしようとした。
口にしようとしたのに、夏実は何も言えなかった。
いい言葉が思いつかない。
聞きたいことも、励ましの言葉も、上手くまとまらない。
何時の間に会いに?、どうしてそんなこと、まさか、ちょっと気が立っていただけだよ、天邪鬼なんだよ、酷い、とか、そんな言葉。
むぎはじっと何処かを見つめてほんのり眉を顰めながら独り言のように呟く。
独白はとても小さな声でぽつりぽつり言葉を落とすようにはじまった。
「私、理事長に会いに行ってきたの。もう、一ヶ月くらい前かな?一哉君がね、教えてくれたんだ。面会の時間も取ってくれた。本当に嬉しかった」
息を大きく吸い吐く。
むぎの目は潤んでいた。
「で、葵さんに会いに行くと、葵さん、元気で、嬉しかった。優しく微笑んでくれて安心した。泣かないでおこうって決めていたのに、会った瞬間泣いちゃうし…恥ずかしかった」
そのあと、ちょっとした些細な日常の話が続いたとむぎは言った。
例えばと夏実が聞くと、とても楽しそうにいろいろ話す。
…きっと葵との、その会いに来るなっていう話以外きっと全て彼女は話した。
久しぶりにむぎのいきいきした顔、本当の笑顔を見た気がした。
すっと表情が変わった。
むぎはただでさえ顔に出やすい。
けれど、葵のこととなると尚更わかりやすくなると夏実は思った。
「で、時間が来た。もう、帰らなくちゃならないのかって思うと悲しかったけど、また会えるなら…って思ったの。そしたら………っ!?」
夏実は無言でむぎを抱きしめた。
そこで、やっとむぎは泣いた。
むぎが泣くのを見たのは本当に久しぶりだった。
彼女は両親が死んだときですら夏実に涙を見せはしなかった。
そこまで、好きなんだ。
でも、葵は会いに来るなと言ったという。
どうして…
彼女を愛してないからなのか、何か理由があるからなのか…。
考えているとむぎはそっと夏実から体を離した。
ごめんね、って言いながら。
どうしてって聞くとこれはただの愚痴だからって彼女は言った。
愚痴ってすこしでもむぎが軽くなるならお安い御用だと夏実は思った。
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06.04.19