桜が舞う、三月。
新しい門出を祝う月。
そうではないのかと、聞きたい…
□サクラ□
「先輩、本当にやめるんですか?」
主語を抜き言う。
もう何度も繰り返された質疑応答。
「ああ」
いつも通りの答え。
香穂子は泣くことも怒ることも出来なかった。
穏やかに、もう、受け入れてしまったとそう、梓馬の顔が言っていたから。
それでも諦められない。
どうして、好きなことを他者から口出しされ、辞めなくてはならないのか。
どうして、ピアノを諦めた梓馬が次はフルートを辞めないくてはならないのか。
どうして、大人の選択なんてものがあるのか。
何を言おうか、何を言えるか香穂子が迷っていると梓馬の手が頭の方に向かってきた。
なんだろうと固まっていると、髪を一撫でし、そして何度か梓馬の細い綺麗な手が髪を梳く。
流れる様な動作だなと人事のように香穂子は思いながら結局この行動にはどういう意味があるのだろうと考えた。
そして思い当たる。
桜の花びらだ。
桜の花びらが頭についていたんだなと思いながらも梓馬の頭には付かないのが不思議で何故と聞くとちゃんと考えて歩いているからだと意地の悪そうな笑みで返された。
ひらひらと数枚の白と見間違えるような薄桃色が梓馬の手から地面に落とされる。
こんなに頭に乗せるなんて器用だねと言われ、香穂子は自分でもそう思った。
満開の桜の木の下。
将来なんて話すべきではなかったのかも知れない、と思っていると梓馬の頭にも花びらが一枚舞い降りた、と思うとすぐにするりと落ちた。
「………」
「先輩、もう一度だけ聞かせてくださ」
言い終わる前に遮られる。
有無も言わさぬ落ち着いた声で。
「思わないか…桜は潔く散る、だから美しいと」
誤魔化しではなく比喩なんだと香穂子は思う。
「そうですか?」
香穂子は心の中で潔い梓馬を思い描く。
しかし、これ以上潔い梓馬など香穂子には想像も出来なかった。
潔いのは世間一般にいいこととされているかもしれないが、梓馬にはもう少し執着や未練を身に着けて欲しいと思った。
家のことでどこまでも何もかもに潔いというまでに見切りをつけている梓馬。
「音楽は高校まで」。
そう、語っていた梓馬が急頭に浮かんだ。
「だらだら咲いてだらだら散ってみろ。桜を好きだという奴は確実に減るだろう」
そう、梓馬が言った。
桜はそうかもしれない。
でも、来年咲くからその潔さをよしとするのだろう。
もし、これから、もう桜は咲かないとなると人々は本当に桜の潔い散り方を褒めることなんて出来るだろうか。
そう、言ってみると、最期まで潔い散り方だったと語り継がれ、人々の記憶でよりいっそう綺麗に咲き続けるだろうと返されてそうかもしれないと思うと香穂子は何も言い返せなかった。
だらだら咲く桜に価値はない。
そう、梓馬は言いたいようだ…いや、言い聞かせているようだった。
「私は好きですけどね、……どんな風になっても」
言うつもりのなかった言葉が口からぽろりと零れ落ちた。
しまったと香穂子は思う。
「どんな風になっても」なんて…梓馬が音楽を辞めるのを勧めるような言葉を発してどうするのだ。
「音楽を辞めた先輩なんてなんの魅力もない」、ぐらいを言わなくてはならなかったのに…。
しかし、心の中でも戸惑う台詞を口にすることなんて香穂子には出来そうになかった。
たとえ音楽を辞めても梓馬のことを好きなのは絶対に変わらない。
はじめは梓馬本人よりも梓馬の音楽の方に惹かれた。
梓馬本人よりも梓馬の音楽の方を先に好きになった。
けれど、今は梓馬本人が好きで、音楽はそれに付随する一部分となっていた。
でも、と思う。
出来るだけ辞めて欲しくない、と。
梓馬の音が好きだから。
そして何より梓馬が音楽を愛していると知っているから。
「ふうん…どんな風になっても、ねぇ」
意地悪そうに、というよりも意地悪に口の端を上げて笑う梓馬。
違う、違いますと大げさに頭をぶんぶん振って叫ぶ。
「桜と……先輩、のフルートの音ですよ!!」
勘違いしないで下さい、と最後にこう、付け足した。
「それはどんな風になっても好きだと思います」
なんだか混乱して言ったものがちゃんと言えたような気がした。
「可愛げのない答えだな」
そう、微笑む梓馬の顔が先程より穏やかで幸せなような、苦しいような気分になった。
「なら、俺がフルートをやめたらどうだ?」
穏やかなままの顔で問う。
「先輩はやめませんよ」
趣味であれ、やめることは絶対にありえない、そう香穂子は思う。
ただ、次の梓馬の言葉がそんな確信めいた思いを打ち消した。
「わからないよ…」
本当に自身のことなのに、梓馬はわからなさそうに呟いた。
そうだ。
ああ、完全にやめなければ諦めがつかないのか。
趣味でなんて駄目なんだ。
そう、気が付いた。
香穂子も音楽に惹きずりこまれている一人なのでそれがわかった。
完全に辞めないといつまでも音楽に惹きずられ続ける。
そんな風では、仕事はできはしない。
仕事を選ぶということは必然的に、音楽を本当の意味で辞めることとなるのだ。
「辞めたら…辞めたらお前はどう思う?」
どう言うべきか迷う。
梓馬の中で何かが揺らいでいるのを感じたからだ。
いつでも自信に満ちた梓馬がこんな風になっているのは初めてだった。
何て言うべきなのだろう。
揺らいでいるのは香穂子も同じだった。
どう、答えるべきか。
フルートを辞めても好き。
そんな言葉が頭に浮かんで
消える。
「嫌いになります」
梓馬の顔は見ずに言った。
どんな顔をしているか知るのが怖かったのと、梓馬の顔を見ると本当のことを言いってしまいそうな気がして。
本音より今の梓馬の求める言葉より、少しでも梓馬を音楽に留められるよう嘘を吐いた。
これが未来の梓馬のためになると信じて。
きっと梓馬にとって自分の言葉なんて梓馬の決意の前では何の影響も与えないと思いながらもどこか祈る気持ちで。
梓馬が背を向けて歩いていく。
その背中はいつも通りぴんと伸びていて、そこからは何も読み取れなかった。
背中に声を出さず口だけで言う。
自身の本音。
好き、だと。
どんなでも、どんなふうでも、と。
でも、だからこそ、ずっと嘘を吐こうと香穂子は思った。
できるだけずっと咲いていられるようにと。
梓馬の心がずっと、枯れないように
そのための嘘ならどんなものも厭わないとも。
365 Themes 1-100/NOVEL
何もかも諦めないで全て願いを叶えてあげたい。
そういう気持ち、な香穂子。いや、きっと柚木もそんな気持ちなんだと思います。
07.05.02